江戸町奉行所跡 南町奉行所跡 有楽町駅東口側広場:写真正面のテントのある場所 2017年建ちました。 東京都指定旧跡 南町奉行所跡 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。 所在地 千代田区有楽町二丁目 旧跡指定 大正7年4月 平成19年(2007)10月 千代田区 北町奉行所跡 東京駅八重洲側口側:写真正面(工事中の場所で入れない) 都旧跡 北町奉行所跡 所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内 指定 大正7年4月 江戸町奉行(えどまちぶぎょう)は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。 江戸町奉行は老中の支配に属し配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統括した。その職掌(しょくしょう)は江戸府内の行政司法警察の一切にわたっていた。 定員は2名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され、役料は三千石、芙蓉間詰(ふようのまづめ)で勘定奉行の上座、輩下に与力同心などがいた。 「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと:遠山金四郎)は天保十一年(一八四〇)三月から三年の間、北町奉行の職にあった。 昭和四十三年十月一日 八丁堀の与力・同心組屋敷跡 八丁堀の与力・同心組屋敷跡 所在地 中央区八丁堀一〜二丁目 日本橋茅場町一〜三丁目の一帯 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。 八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇〜五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。 平成十三年三月 中央区教育委員会 |