新坂

文京      新坂(今井坂) 文京区春日2丁目7番と8番の間
新坂(:外記坂) 文京区本郷1−25と32の間
新坂(目白新坂) 文京区関口2丁目と3丁目の間
新坂 (福山坂) 文京区西片1丁目20番と白山1丁目3番の間
新坂 (権現坂 S字坂) 文京区根津1 根津神社前
新坂(本郷) 文京区本郷6丁目11と5丁目33の間


新坂(今井坂) 文京区春日2丁目7番と8番の間

新坂上り口
新坂を少し上がった場所

坂の入口を振り返る
坂をさらに上がって行く
坂下を見る
坂下方向を
坂下方向
新坂中間からか坂下を
坂の中間から坂上を
新坂をさらに上がる
新坂上部へ出る
新坂を戻る。
坂を下る。
坂を下る
坂の中間
左の金網(橋)下を電車が走る。
坂の中間に橋が架かる。
坂の下部

左に徳川慶喜の碑がある(写真は下に貼りつけてある)。
坂下を
坂の上り口付近の住所
新坂入口付近を坂から見る
徳川慶喜の碑
新坂の
説明板

 『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711〜16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(かねひら)(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
 この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹(いちょう)のみである。
 この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空)
          (この町とは旧金富町をさす) 
文京区教育委員会 平成13年1月


新坂(目白新坂) 文京区関口2丁目と3丁目の間

新坂
坂を上って行くと椿山荘へ
坂を少し上がった場所から坂の入口を
坂上を見る
坂の途中から坂下を
坂を上る。
曲がりながらゆるやかに続く
坂の中間から坂下を
坂の上部付近が見える
坂を下る

坂の上部を坂の反対の道から
中間から坂上を
坂の中間から坂下を
坂上方向を見る
坂下が近い
坂下へ出る

この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治二十年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂に対して目白新坂という。
 明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽八丁目と同九丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり、」とあり、椿坂、
新坂ともいう。
坂を上った左側に「椿山荘」があります。


新坂 (外記坂) 菊坂下交差点付近

区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
文京区教育委員会 昭和63年3月