0/3 赤穂義士伝史跡めぐり


うっすらとした静寂の朝に降り出した雪が江戸の町を白くして行きます。今は元禄15年12月14日。47人の男達は唯一つの目的のために生きてきました。それは主君の仇討ちです。それがたった一つの願いでした。男達は討ち入り前の雪をそれぞれの思い秘めて迎えました。・・・ 

朝支度の井戸端でこの雪を不吉!と思った吉良の男は鉛色の低く垂れ込める空を見上げた。何かが起こる予感を雪が知らせているようだ!・・・。

Kin3歩は江戸の昔を何回かに別けて歩いて見ました。通勤で毎日見ていた、史跡・見学で見たところ・知らないで通過していた処・などなど。「赤穂義士伝」史跡めぐりの3歩に出かけましょう。


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 1  松之大廊下跡 仇討ち事件の発祥の場所
 浅野内匠頭終焉の地
 南部坂
 2  吉良上野介義央邸跡
 泉岳寺への道のり
 3  泉岳寺
 赤穂浪土が足を洗った井戸
 大石内蔵助切腹の地
 浜離宮



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松之大廊下跡 仇討ち事件の発祥の場所

元禄14年(1701)3月14日、勅使接待役浅野匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に刃傷におよび、即日一関藩主田村右京太夫の屋敷で切腹を命ぜられた。
廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来で、江戸城内で2番目に長い廊下で畳敷きの立派なものだった。 千代田区皇居東御苑内。





浅野内匠頭終焉の地

江戸時代に奥州一之関藩(岩手県)田村右京大夫の上屋敷のあった所です。「浅野内匠頭終焉之地」という石碑が建てられています。
この屋敷に送られ切腹させられた内匠頭は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」と無念の辞世を残しました。
喧嘩両成敗の原則に反し、一方的な処置をされたため、赤穂義士の仇討が決行される結果となったといわれています。



港区新橋4−3117

田村右京大夫を祀った神社。
「浅野内匠頭終焉之地」石碑のある一本裏の通りにある。
また、近くの新正堂(菓子店)には、切腹最中なるサラーマンに評判の菓子がある。仕事の不祥事などの謝りに際して、腹を切ってお詫びするという意味で切腹最中を持って行くそうだ。
切腹最中



南部坂



元禄十五年(1702)の十二月十四日は朝から雪が降り続いており、その中で翌日に討ち入りを控えた大石内蔵助は瑶泉院に暇乞いにおもむきましたが、吉良方に計画の漏れることをおそれて、ついに討ち入りのことを告げずに去ります。
「南部坂 雪の別れ」の場面。
南部坂 港区赤坂2−22付近



浅野家断絶後、浅野内匠頭の夫人瑶泉院は、生家である三次浅野土佐守の下屋敷(現在の赤坂氷川神社の所にあった)に住んでいた。
氷川神社 港区赤坂6-10  



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吉良上野介義央邸跡

江戸城、松の廊下での刃傷事件で無念の切腹をした主君 浅野内匠守長矩の仇を討つため、元禄15年(1702)12月15日未明、本所 松板町(現墨田区両国三丁目)にある 幕府高家筆頭・吉良上野之介義央の屋敷に、大石内蔵助率いる赤穂浪士 四十七人が討ち入ります。
墨田区両国3−13 松坂町公園
討入

四十七土全員が、吉良邸近くのうどん屋・久兵衛方、あるいはそば屋・楠屋重兵衛方に集まり、腹ごしら えをしたあとで討入り装束に着替えたという(真・偽!?)。
赤穂浪士は、吉良邸前で、二手に分かれました。表門組は大石内蔵助(二十三名)。裏門組は大石主税(二十四名)でした。そして、その双方が両門から討入った。


泉岳寺への道のり

本懐を遂げた一行は近くの回向院に入れず、泉岳寺を目指します。
泉岳寺は両国橋を渡りますが、そうすると武家屋敷街を通ることになる。十五日は大名・旗本の登城日にあたっていて、不測の事態の起こるのを懸念し両国橋を渡らず、回向院前から竪川の一ツ目橋をとおり、隅田川沿に小名木川の万年橋から上の橋、中の橋、下の橋を通る。永代橋を渡り、霊岸島から稲荷橋、そして浅野家の旧屋敷の築地鉄砲洲を通り、汐留橋に出、日比谷から金杉橋、将監橋という道順で無事泉岳寺につく。

回向院 明暦の大火の被災者などを回向するために建てられた。ねずみ小僧の墓もある。義士たちは仇討ち後ここに集結する予定でしたが、寺から断られ、やむなく主君の菩提寺「泉岳寺」へ向かった。 墨田区両国2-8-10

永代橋 永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側の場所だという。隅田川で四番目に作られた橋だそうだ。








浅野内匠頭邸跡(聖路加病院脇)8970坪の広大な屋敷跡も木立の下に碑を残すだけである。



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泉岳寺

泉岳寺は「桶狭間の戦い」(永緑3年=1560)で討死した今川義元を供養するために徳川 家康によって建立されたもので、曹洞宗の江戸における本山であり、浅野氏など大名数家の菩提寺でもありました。

亡主・浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供えた浪士らは、同寺で幕府からの指示を待ちます。
泉岳寺山門
墓所入口



首洗い井戸

赤穂義士墓地
大石内蔵助

港区高輪2−11


赤穂浪土が足を洗った井戸

元禄15年(1702)12月15日早朝、吉良邸討ち入りを大目付仙石伯耆守久尚自訴した時に赤穂浪土が足を洗った井戸があった場所です。
港区虎ノ門2−9 ニツショーホール玄関



肥後熊本城主細川越中守綱利高輪下屋敷(大石内蔵助切腹の地)

大石内蔵助良雄ら十七士切腹の場所。
切腹の場となった大名四家のうち唯一切腹の座が明らかな場所です。

港区高輪1−15 都営団地内






浜離宮

徳川家宣の別邸でその後、将軍家の「御浜御殿」と呼ばれた。「元禄忠臣蔵の名場面の場所としても有名」。御浜御殿(浜離宮恩賜庭園)
中央区浜離宮1−1